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スタバの店員はもはやアートである。

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べつにスターバックスの回し者じゃありませんが笑
スタバでもタリーズでも、本当に気分が良くなる接客をしてくれる。特に都会は。
表情だったり声のトーンだったり気遣いだったり、例えば大学生がよく行くようなファーストフードの接客とは一線を画している。
おそらく彼ら彼女らは、マニュアル接客だし、それを身に覚えさせて接客をしているのでしょう。
それはある意味、人工的であり機械的です。
でもそこに型にはめれれた美というものを感じ取ったのです。

たとえばダンスを見る時、僕らはそのどこに感動するのかと言えば、それらはすべて無駄のない動きから派生していると思われます。
動きに躊躇いがなく、無駄がなく、雑念がない。
そこにある種の形式美を感じるのです。

接客の話も同じことで、おそらく僕が美しいと感じたのは、そこに無駄な動きやためらいがなかったから。
ひとつの一つの動きがなめらかで、全体の中で調和されていたから。
芸術とかアートというものも、そこに帰着する美しさを持ち合わせているもので、その点から、接客に芸術性を見出したのでしょう。

だがしかしこれは、本当にポジティブな感情からだけ来たのでしょうか。
つまり、身体は機械的に「動作」として「心地よい接客」を覚えて実践しているのだけれど、そこに精神が伴っているかどうかは別問題であり、むしろ身体だけで「おもてなし」が表現できるのなら、そこにまかせて精神はついていかないのでは、ということ。
まあ平たく言えば、外見だけ取り繕って、本当は心なんて込めてないんじゃないの、ということ。

けれど、スターバックスの店員が、接客クオリティとしてそこまで要求されなければならないかというと、それはまた違う気もするわけで。
たかだかカフェの店員にそれこそ高級ホテル並みの接客を求めるのは違う。
確かに、庶民的感覚で言えば、スタバのコーヒーは高いわけで、そこには心地よい接客を受ける対価とか、居心地のよい空間を提供される対価というのも含まれているはず。
でもそこで考慮されているサービスの程度なんてたかが知れてるんじゃないのとも思うわけで。
この辺で、ぼくも、サービス過剰と言われている日本の影響で、無意識に高サービスを要求する態度を形成してしまったのかもしれない、ということに気づきました。


おそらく、店員さんたちは、マニュアルで学んだ「役」を演じているのでしょう。
つまり、精神は身体を客観視していて、所作と心が乖離している。
でもこれって、人生における潤滑油だし、うまく生きていくために参考にできる部分だと思うのです。

生きるということは演じることである、とかたぶんどこかの偉い人が言ってるんでしょうが、これは的を得ていて、人間の本性なんて基本あくどさの塊なんだから、そのままにしてたらマイナスエネルギーしか発しない。
こうなったら周りに悪い印象しか与えないので、なんらかのペルソナを用意しなきゃいけないわけで。
それに人は対面するコミュニティによって仮面を変えるしキャラも違うから、そんなペルソナをいくつも持ち合わせている。
場面によって自分を演じて分けているわけです。
こう気づいてから、ぼくは人生がかなり楽になりました。
熱に媚を売るとか、自分を偽るとかじゃなく、単純にすべてのペルソナを自分の一部として演じていけばいい。
そしてその場その場で適した役割を演じていく。
人生とはまさにロールプレイング。