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大学受験で失敗した人に伝えたいこと

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僕のブログ歴はけっこう長いもので、思い返すと浪人時代も大学受験ブログ的なものを書いていました。

現役時代にすべり止め受かっていて、どうしても第一志望に行きたくて浪人したわけですが、浪人生の僕は第一志望の大学に落ちて、結局滑り止めで受けた大学に行くことになりました。現役時代もそこそこ結果出してて、浪人時も模試に名前載るくらいには成績良かったんですが、最後の最後に詰めの甘さが露呈しましたね。今でもそうですが、僕には「ディーテールまで積めるのが苦手」という根本的な弱点があるみたいです。

はたから見たらめちゃくちゃカッコ悪いわけですが、そのときの心境というのを当時にブログに書いています。時期なので思い出してしまいました。
挫折とか失敗したときって、悔しいですよね。頑張ったら頑張った分だけブーメランみたいに失敗した自分の心に突き刺さってえぐってくる。
でもそういう経験は、必ず何らかの形で糧になっていて、後々の経験に活かせるもんだと思っています。その活かし方について、何年も前の僕(当時19歳)は書いていました。

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 たとえば何らかの目標を設定してそこまで努力し、結果として目標を成し遂げられなかった人たちに対してかけられる言葉に「がんばったことに意味がある」みたいなのがありますよね。「結果が全てじゃない」とか。僕はこういう言葉があまり好きじゃないんです。あ、自分が不合格だったからではないですよ?前々からなんか違うな・・・って思ってて。失敗は客観的評価としてある意味絶対性を持っているわけで否定できるものではないし、なにか単純にその過程だけが美化されているようなものなんじゃないかって。ある種の「慰め」を伴うからこそ、失敗っていう負の側面が覆い隠されているからなんでしょうけど。
 前回の記事で人間は多面的だって書いたように、僕は「単純化」っていうのにものすごく違和感を覚える人間なので、「努力した過程だけが大事」っていう態度には賛成しかねます。やはり事実として失敗は失敗なんです。ただ、この(結果に対する)評価ってのは、上でも「客観的には」って書いたように極めて他者的な視点なので、自分が失敗をどう受け止めるかってのとは別次元である、とも思ってます。
 基本的に「他者」は結果しか見ませんし、見えません。その視点は単純化されてます。勝てば官軍なんです。そして(事実だからこそ)自分自身もそういう視点を持っていしまいがちですが、そこにとらわれる必要はないんだと思えることが自己肯定の第一歩だと思うのです。失敗を失敗で終わらせない一歩だと思うのです。
 当人にとっても失敗は事実であり客観性を持つので、そのものは変えられません。否定できるものでもないし否定していいものでもないでしょう。失敗を受け入れた上で「じゃあどうする?」「これからどう活かす?」っていう態度が必要なわけであって、そういう視点から「努力した過程」ってのを見るべきだと思うのです。失敗の否定は自己否定に他ならないのです。
 ですから 「がんばったことに意味がある」とはそのままは受け取れません。それ自体に大して意味はないと思います。失敗を次にどう活かすかという視点で過去を照射し、これから生きていくうえでの糧にできて初めて失敗を意味あるものとして肯定できるのではないでしょうか。

これは今読み直しても本当にその通りだなあと思います。
自分の中でどう受け入れるか。失敗に対して自分なりに納得の得られる解釈を与えられたときに、初めてそれを糧にできるのでしょう。失恋とか仕事とか、何でもそうですよね。
立ち直るのも時間がかかりでしょうが、そこを乗り越えれば新たな風景が見えてくるはずです。

今年度の大学受験の結果が出て、志望の大学に受からず、浪人する人・滑り止めの大学にいる人、いると思います。
たぶんすげー悔しいと思うですけど、終わったことを嘆いても何も生まれませんから、その悔しさをバネにして、ぜひ大学生活を有意義にしてください。そう思って大学生活を送れば人の何倍も深みのある人間になれますから。