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公平中立というのはあり得るのか

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前の記事で、何かを伝えるときに、何らかの意図を介在させてはならないという内容を書きました。相手に何か裏があるのではないかと感じさせてしまうと、目的が自分自身でなくほかのところにあり、自分は利用されているのではないか、と感じてしまうからです。

 

情報を発信する側から受ける側に話を移してみると、僕らはしばしば偏向的な報道や偏ったものの見方に嫌悪感を感じます。純粋な事実というものを好みます。

 

それは理想論として、どこかで中立が正義だという考え方があるから。中立という立場が一番、双方の事情を汲んでおり、俯瞰的な聡明な反棚ができると思われるのです。

 

しかし実際は純粋な事実などというのは存在しません。すべて誰が言ったか、編集したかによって、不可避的にそこに恣意が入り込んでしまうのです。 事実のみを伝える場合でもどの事実を伝えるかを取捨選択することによって「編集」が可能なのです。

たとえば、「青年Aが自分の母親を殺した。母親の遺体は何度も切り刻まれ跡形もなかった」と書かれると、Aはとても冷酷な人間だという印象を与えます。

しかし「Aは小さいころから母子家庭で、貧しい家庭の中で育った。母と二人暮らしで、母親は水商売をやっておりいつも違う男を家に連れ込んでいた。感情の起伏が激しくAに暴力をふるうことも珍しくなかった」という情報が加えられたらどうでしょう。前後で印象は変わってくるはずです。

 

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また、堀潤さんと津田大介さんとの対談の中の堀さんの言葉で、NHKは公平中立を旨としている放送局だという趣旨のものがありました。世論が公平中立の尺度に非常に近いところにあるとみなして、その世論にできるだけ近い報道をしてくというのです。

 

しかし、実際には世論に沿う公平中立などありえなく、堀さんがおっしゃっていたのは両極端の立場の人の議論を戦わせること、そしてそれを伝えることが最も公平中立ではないか、という内容のことを言っています。たとえば原発推進派と脱原発派を議論させて、どういう事柄が論点になっているのか、それぞれの論点の重要度はどれくらいなのか、関係するステークホルダーはどのような人々なのか、をはっきり示すことが公平性につながるのです。

 

これは、多くの問題がそんな一筋縄ではいかない複雑な問題で去るということを示しています。逆に言えば、一筋縄でいかないからこそ紛糾するのです。

 

結局突き詰めればこれは利害関係の問題にぶち当たるのです。TPPの問題だって、いろいろ御託が並べられていますが、(保守的なままでは)農業が打撃を受けるから農協は反対しているのだし、経団連が賛成しているのは、日本の多くが輸出企業で、自由貿易が促進されることによって輸出が増えより多くの収益を上げることができるからです。

 

だからこそ、当たり前ですが、発言やメッセージを解釈するときは、それが誰から発せられたものかをきちんと理解しなくてはなりません。なぜあの人がこういう発言をしているのか、意図はどこにあるのかということを探ってこそ、問題の本質が見えてくるのです。