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なんで「勉強ができる子」は肩身が狭いのか

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Togetterで下記のエントリが盛況のようです。

 

勉強出来た子あるある

 

まとめられた方によると、「勉強出来た男子・女子は、学生の本分を頑張ってるにも関わらず、中学生くらいまで、クラスの中で人気者になれるわけでも、モテるわけでもなく、何でか後ろめたい気持ちにすらなっている(田舎はとくに)。そんな人たちへの応援歌的な意味も込めて、あるあるで言いたいことを代弁します。」とのこと。

 

正直、これを読んで思わず「あるある~」ってうなずいちゃいました。こういうこと、たぶんfacebookとかに書くと嫌味だとかだとか思われるんでしょうけど、僕自身、小中高と一応「勉強ができた子」の部類に入りましたので(浪人はしてますが)、何かと共感した部分が多かったのです。

 

 

ここで共感されている感情というのは、

自分は本来がんばるべき勉強を頑張ってそれなりの成果を出しているのに、それを正当に評価されていないと感じるし、スポーツとかの他の分野で結果を出している人たちはそれを称賛され自慢しても煙たがられないこの理不尽で肩身が狭い思いはなんなんだ!

ぐらいのものかと思います。

確かに自分のことを振り返ってみても、特に中学生くらいからはテストの点数とか見せびらかさなくなったし、テスト前とかはそれなりに勉強してまあいい点数とっていたのに、友人からはほとんどそのことを評価されず、加えて運動ができたわけではなかったので、そのせいで当時スクールカースト的には高くない位置にいたように記憶しています。

友達は結構いたんですけどね。

そういえば浪人時代も、予備校の授業でちょっとなにかの視線を感じて窓の外を見ただけなのに講師から「○○、××ってどういうことか答えてみなよ。今○○はそっぽ向いてたよな。ってことは聞いてなくてもわかるからだろ」みたいなこと言われましたね。予備校時代は模試の順位とかが毎回張り出されていたのですが、まあ地方の予備校で玉石混合だったってのもあり、割と毎回載ってたんですねこれに。それもあって周りの予備校生とかの心象は悪かっただろうなあ。

 

昔話はさておき、それにしてもなんで勉強できたことってそんなに評価されないんでしょうね。成果を出してるし、それが競争優位につながるはずなのに。

そういえば(特に男子は)小中学校のころは音楽とか芸術に秀でていることも評価されないですよね。なんでなんでしょう。

 

思うに、運動やスポーツが最も本能的な快楽と直結していて、自発的にそれを行うことを厭わない部分が大きい、というところに起因するのではないでしょうか。

 

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身体を動かしてスポーツをするという身体的な所作は、人間の動物的な本能と直結する部分があります。人間も動物ですから、歴史を遡れば、走り回り標的に襲い掛かって狩りをし、天敵がやってきたらすぐさま逃げ出したという、身体をフルに稼働させていた時代のDNAが残っているのでしょう。もちろん、僕もスポーツは苦手ですが体を動かすことは気持ちよくて好きですし、そのような本能的な欲求というのは万人共通の者かと思います。

小中学校というのは、まだまだ子供ですし、生まれてからの月日も浅く、動物的な本能というのが強く残っており、また、文化的な蓄積もまだまだ少ない状態です。人間的な文化の蓄積(学問や芸術や文学など)は長い人間的な歴史を要するものであり、長年の蓄積を経て真価を発揮する類のものです。なのでまだ子供の時というのは、語弊があるかもしれませんが、良くも悪くも動物的で、人間的な文化の蓄積もないため、最もわかりやすい身体的な「スポーツ」が評価の重要な要素として機能するのでしょう。

 

逆に勉強というのは、いくらホモサピエンスといわれる我々人類でも、本能的な快楽とは直結していない、もしくはその関連性が非常に薄いものです。先生が言うから、親が言うから、入試があるから、仕方なしにやる、もしくは全然やりたくない、と言いながら、なんで勉強しなきゃいけないかわからない。この動物的な本能とリンクしているかというところが大きいのではないでしょうか。

 

しかし、小中(高校も含むかな)までは勉強ができるということはあまりでスポーツが評価されますが、大学に入ってからは、スポーツの優位性が低下してもっと種々の価値観がうまれ多様性が生まれました。

その理由を考えてみると、自分が偏差値の高い大学に通っているというバイアスもあるでしょうが、形成するコミュニティの性質の変化によるところが大きいと思います。

僕は田舎の公立学校にずっと通っていたので特にそうなのですが、小中までって基本的に学力レベルに多様性を持たせながら、学校側から強制的にクラス分けされますよね。この「強制的なクラス分け」というのがみそです。

学力や芸術などの素養はボラティリティが大きい、すなわちできる人もできない人もいるしできる人とできない人の差が激しいので、それらの価値基準というのは全クラス的な統一的な価値基準にはなりにくい。したがって、上記で述べたような、より人間的に根源的な運動という価値基準が、最大公約数としてクラスの価値基準に採用されるのです。

ところが大学に入ると基本的にクラス制度なんてものはありません。あっても形式的なもので実態は機能していないのです。コミュニティを強制されない以上、みずからコミュニティを形成したり加入していくわけですが、その時は自分の価値観と似たようなところを選ぶものです。運動苦手なのに体育会に入るはずがありません。

しかも大学では大学自体の規模が(小中高に比べて)大きくなるので、比較的マイナーな価値観でもコミュニティーを見つけそこを居場所とすることができます。今まで抑えていた自分の価値を発揮することができるのです。

したがって、大学生ともなるとそれぞれの価値・才能・趣味が肯定され多様性が生まれるのです。大学入試はたいていはペーパーテストで選抜されるので「勉強」という面においてもある程度共通理解を持った人たちが集まるので、そんなに肩身の狭い思いをしなくて済むのです。