意識高い学生はうざいのか
意識高い学生、が(笑)をつけて揶揄されるのも珍しくなくなりました。しかし、そういった批判に対して、いまいち実感を持てないでいます(僕自身、意識高い学生かそうでないか、どちらに分類されるかと言われば、前者だとみなされるとは思うので、ポジショントークだという感も否めないですが)。
というのも、自分の身の回りを見てみても、「意識高い学生」はいても、彼らに対して「うざい」とあまり感じたことがないからです。そもそも、意識高い学生とはなんなのか、そして彼らのどのような部分に「うざさ」を感じるのか、あまり良くわかっていないのです。
意識高い学生とは
以下のまとめサイトを見てみます。
まとめると、
- 意識高い学生と意識高い学生()がいる
- 実力が伴っていない
- できもしないことを口にする
- 自己顕示欲をひしひしと感じる、わざわざフェイスブックでアピールしたがる
- 議論したがり
- 行動と考えが伴ってない→行動してない
- 高いの意識だけで能力が伴ってない
- 本物は謙虚
また、以下のサイトでは、
「意識の高い学生(笑」が「意識の高い学生」になるたった一つの方法
- 将来のキャリアを考えている
- 常に向上心を持つ
- 海外に憧れる
- 身の丈の越えた夢を主張する
どうやら、意識高い学生と意識高い学生()がいるそうです。僕があまり「意識高い学生」に対して嫌悪感を抱いていなかったのは、僕が知っている「意識高い学生」がみんなカッコがつかない人たちだったからなのでしょうか。
そして、カッコがつくような人というのは、「彼らが言っていることと、彼らが実際にできそうなことのあいだにギャップがありすぎて、到底できないだろうと思われるにもかかわらず、さも自分には出来る資格があるように自己顕示をしてしまう」ところにあるとまとめることができます。
確かに、こういう特徴があるのなら、うざい、というのも納得できます。ここには、二つのウザさがあると考えられます。
一つは、強い上昇志向に対するうざさ。上昇志向が強くない人(そして一般的にはそういう人が多い)にとって、常に向上心を持っている人というのは暑苦しく映ってしまうものです。向上心を持つということはエネルギーを使うということであり、そういう人を見て、自分も巻き込まれて一緒にエネルギー使うのが面倒くさい、という印象を持つのでしょう。
もう一つは傲慢さに対するうざさ。今の自分の能力では到底かなわないような目標を掲げられると、そこに自己の過大評価や、その困難さがわかってない幼稚さを感じ取ってしまいます。できないことをできるという欺瞞が透けて見えるのでしょう。
そういえば自分の知り合い、というか知っている人に意識高い学生()にそうとするような人がいたのを思い出したので彼のことも考えています。
彼はもともと、内向きな人間だったらしいですが、あることをきっかけに人との「つながり」の重要性に気づき、そこから人との「つながり」を生み出していくような場をるくる学生団体を立ち上げてました。
今思うと、なぜ僕が彼に対して嫌悪感を感じたのかというと、「つながり」だとかいう、うわべだけの表面的なものでわいわいきゃっきゃしていることが、大人やほかの方面から見たときに、非本質的なことを標榜しなから、あたかも本質的なことがわかったような気でいる、その傲慢さとか偽善ちっくなところが「うざ」かったのでした。
考えてみれば、自分の周りの「意識高い」友人や後輩は、少なくとも本質的なことに真剣に取り組んでいるように思えますし(海外行って企業とか)、だからこそ応援したいとすら思うのです。
困難な目標に対して、つらいことは嫌だから表面的なことだけをなぞって、それをファッションとして楽しんでいるだけだとしたら、確かに、うざいと感じるのは仕方がないような気がします