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深い友人関係を築くことが、親友がいることが、絶対的な正義なのだろうか

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僕には、親友という人がいないと思う。

「親友って誰?」ってきかれたら、ぱっと頭に浮かぶ人が出てこない。

でも、知り合いは多い方だと思う。

フェイスブックの友達も平均の何倍、っていう数いる。

でもその中で、親密な人間関係を築けている人がどれだけいるんだろうって考えた時に、親密の定義やその度合いにもよるけど、僕はその答えを出せないかもしれない。

完全に「広く浅く」タイプなのだ。

 

 

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多分その原因は、当然だけど、僕の今までの人間との付き合い方が大きく影響しているんだと思う。

昔から、小学校とか中学校とか、あまりほかの人と遊ぶということをしてこなかった。

遊ぶと言ったら一人でなにかしているような子供だった。

ほかの人と遊ぶということに対して、僕のコントロールの及ばない範囲でディスインセンティブというか障害があったのは否めないし、僕がそういう子供時代を送ったのが、僕個人の内部的要因なのか、それとも不可避的な外部要因だったのか、両方だったのか、その度合いやグラデーションはわからないけど。

 

僕は人見知りなのだろうか。たぶん、自分の過去の経験を振り返っても、根っこの部分では人見知りだと思う。上で書いたように、一人で遊んでいることも多かったし。

でも社交的であるように振舞うことはできる。別に大学ではそれで困ってない。現に大学に入ってからは爆発的に知り合いが増えた(母体数という構造的な問題はあるにしろ)。

 

たぶん、僕が深いところで人間関係を結ぶのが苦手な理由は、こう自分が自覚しているのも悲しいことだけれど、人間自体への興味の薄さなんじゃないかと思う。

 

僕は基本的に、だらだら過ごすことが嫌いだ。実際そうかはともかくとして、常になにかしらしていたいと思う人間し、周りの友人と比較しても「何かしている」ほうだと思う。なんというか、頭のどこかで、常に「目的」とか「合理性」とかを考えてしまっているんだと思う。そんなに意識化されていないけど。

 

お酒は好きだから飲み会はまだマシだけど、常に「意味」を考えてしまって、何の目的もなく友人とゆるゆると時間を潰すということができないのだ。浪費的、とか刹那的、とか思ってしまう。だからというか、最近は、目的志向型の人と付き合うことが多くなったように思う。

 

ホリエモンの言葉で、「仲間を捨てると刺激的な出会いが待っていた」というものが紹介されていた。僕はこの言葉がすごいわかるし、共感するし、こういう人間なんだろうなあと思う。別にホリエモンみたいになれるだろ、とか言っているわけではなくて、この部分のパーソナリティに限定して言えば、似ているなあということ。特に大学に入ってからのことを考えると、僕の大学生活はいくつかのフェーズに分けることができて、その各フェーズにおいてメインに付き合っていた人たちっていうのは大きく変わってきた。

たぶん、常に新しい刺激を求めているんだろうってこともあるし、飽き性なんだと思う。僕の中に見えない衝動が働いていて、そいつが僕を突き動かしいる。

 

だから、今まで新しい人と人間関係を築くことは多かったし、そういうのは抵抗なくできるんだろう。でもその関係性をあまり続けようとしてこなかったから、未だに深い関係性を結ぶのに苦労している。そもそも望んでいるのかわからないけど。メンテナンスをしていない、これは多分、長期的な人間関係にとって致命的。

 

大学に入ると、とか、大学を出ると、とか、そういう通過点を過ぎると、利害関係なしに友人関係を結ぶことができなくなる、というのはよく言われることだけど、僕はもう、僕自身という人間が、利害関係なしに友人関係を結ぶことができなくなってしまっているのかもしれない、そんな気がしてしまう。

そしてたぶん、初対面の人と関係性を結ぶときは、何らかの利害関係が関わっている場合がたいがいだから、僕はもうそれに慣れてしまっているのかもしれない。

 

ぼくは別に、これが悪いことだとは思ってない。これはニュートラルなぼくの性質であって、これ自体は価値判断を含むべきものではない。ただ、僕はもう、そういう風にしか生きていけないんだと思う。これによって得られるものもあるし、失うものもある。ただ、それだけのこと。 

 

 

いつもはですます調で書いているブログですが、今回はテーマ的に、このような独白の形の方が書きやすかったのでそうしてみました。テーマによって文体を変えるのもいいかな。