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「リア充じゃなきゃいけない」病

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 FacebookやTwitterやmixiなどのSNSが「つながり」を加速したとはよく言われることですが、この「つながり」というのは「今の若い世代はほかの世代と比べて周囲の他者とつながることに価値を置いている」ということではないのではないかという気がしています。確かにマクロ経済的な環境の違い(金融恐慌やデフレ)、生活水準の向上、イノベーションなどボクら世代が置かれている環境の相違点は挙げればキリがないですが、しかし人間の精神的な性質って時代を通じてそんな簡単に変化しないのでは、とか思うのです。だから精神や根性論を持ち出した若者批判というのはその背景にある構造的裏付けがないとどうも説得力に欠ける気がするのです。

 

そういったSNSというのは「個々人のプライバシーを可視化した」ことに意義があったのではないでしょうか。意義があったというか、重要な変化だったというか。そしてこれは特に、いわゆるリア充の人たちがよりリア充化することを促進したように思えます。SNSでは自らの近況を発信するわけですから、リア充の人たちは、自分のアイデンティティを維持・延長しようと、「リア充な」投稿をするわけです。「友人とおしゃれなカフェでランチ」「旧友と山でキャンプしてきました」「ヨーロッパに海外旅行」など。結果としてFacebookはリア充アピールの自己顕示欲に溢れた場となるわけです。

 

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この論は、「リア充」な人たちはリア充アピールをしたがるという前提のもとに成り立つわけですが、ではなぜ彼らはリア充アピールをしたがるのでしょうか。そしてこれに対する違和感というのが、今回このエントリを書こうと思った主な動機なのです。

 

この違和感というのは、僕がこの一年間をどう過ごそうかと考えていたところに端を発します。友人のfacebookの投稿で「就活が終わったので何かしたいです。海外行けたりボランティアできたりできることありませんか?」という趣旨のものがありました。そしてそれに対するたくさんのいいねとコメント。僕も少し前に大学生活の残り一年をどう過ごしたいかについてエントリを書きましたが、それはあくまでも社会人準備の側面についてのみ絞ったものでした。このFBの投稿を見て、あ、自分も海外行きたいな、海外インターンとかやりたいな、とか漠然と思わされたわけです。

 

でも僕は本当に、海外旅行とかインターンとか行きたいのか、その時にある種の違和感、もっといえば「自分を偽っている感」を感じてしまいました。

例えて言うなら、大学入学したての1年生。親元を離れてはじめて下宿しだした1年生はまだ一人でいるということに慣れず、往々にして群れたがりです。そうやって友人と何かをしていないと、自分がすごく寂しい人間に感じてしまうのです。

僕の違和感はここに通ずるものがあります。「この夏海外インターンに行ってきました」「大学生最後の長期休暇にみんなで旅行してきました」なんかこう、いかにもリア充で、予定いっぱいでみんなで過ごして、楽しい思い出作らなきゃいけない、みたいな見えない変なプレッシャーが働いているように見えます、僕の目には。そして僕自身にも。

僕は別に留学とか海外インターンに行きたいとか心底感じているのではなくて、「リア充じゃなきゃいけない」病にかかってしまって、そういうことをしないと、なにか自分がとても惨めな人間に思えてしまう、そんな寂しさや危惧が働いて、そんな風に思ってるだけではないのか、そんな疑念が頭の中を過るのです。

 

この世界はもともと、リア充に優しい世界だと思います。なんで学校終わったらサークル行ってみんなでわいわいして、月に何回かは飲み会して、土日祝日には昔の友達とカフェでおしゃれランチして、長期休暇にはみんなで旅行行って海外一人旅するのが正義なんでしょうか。

家で静かに読書したり、毎日一所懸命に勉強したり、そういった一人で静かに努める活動というのが、この「世間」では評価されないようなプレッシャーを感じます。

 

こう感じるのは、僕がまた人間的に未熟だからでしょうか。

僕の疑念は、中二病でしょうか。